『竹内政明の「編集手帳」傑作選』の「入学式」というコラムの中で紹介されていた俳句がじわじわと忘れられなくなっています。
〈蝸牛いつか哀歓を子はかくす〉(加藤楸邨)
わが子に芽生えた傷つきやすい感受性を、カタツムリの繊細なツノにたとえたのだろうとのことです。
子供はカタツムリの頃を通り過ぎて成長していく、と記載されています。
もう一つ同じコラムの締めで紹介されていたのがこちらの俳句です。
〈何かあったか子の口笛の淋しい日〉(大西俊和)
「親としては哀歓を口笛ではなく言葉で聴きたいところだが、致し方あるまい。われらも、かつては1匹のカタツムリなれば。」と締められていました。
小学6年生の娘がいます。彼女の哀歓をカタツムリのツノのようなものだと思うと、愛しさが増すように感じます。
言葉がなくても、口笛で哀歓を感じられるのでも、良い気がします。
先ほど、その娘が描いたであろう、女の子3人の絵を見まけました。見れば見るほど彼女の「歓」を良く感じることができる、楽しい絵です。
今朝、私はこの絵が床に落ちているのを見て、「床に置きっぱなしにしないで。」とブツブツ言いながら描かれた絵も見ずに片付けてしまっていたものでした。
「床の上に落ちている」ということに着目せず、「3人の女の子の楽しそうな絵」に気づいて長女に感想を伝えていたら、どんな話が聞けたでしょうか。
どのような歓を受け取れたでしょうか。
明日に声をかけてもまだ間に合うでしょうか。
自身の仕事や生活の忙しさにあてられて、繊細な子ども達の感受性に乱暴を働いてしまっていたり、無関心になってしまっていたりしないでしょうか。
私自身に良く問いたいと思います。