6年ほど前にバセドウ病を発症し、定期的な通院と検査と投薬を続けてきて、悪い数値は減ってきていたので、もうそろそろ薬をなくせるのではないかと期待をしていた矢先。急にガツンと悪い数値が上がりました。

「もうそろそろ」なんて淡い期待も持っていたので、それこそガツンと頭を叩かれたようなショックでした。しかも発症当初より悪い数値です。振り出しよりもっとマイナスへ行ってしまったようです。どんな心持ちでいられるかと、心許なく感じていました。

そんな折に読んだ本が『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄著です。この本は、私が好きな作家いしいしんじさんの『人生不案内』老若男女から届く相談に、いしいさんが本気のこころで向き合ったという回答集にて、紹介されていました。

このタイミングで読めたのが偶然か必然か。べてるの家の人々の話を読んでいるうちに、私の心は穏やかに凪ぎ、自然に生きようと思うようになりました。

べてるの家は、1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点です。本書には、精神障害を持った人々の苦悩や、病を持ちながらの生活の様子、葛藤が綴られていました。

“ベてるの家の人びとの生きる力、回復への力を作り出したのは一人ひとりのなかにぎっしりと詰まった苦労だった。悩みながら積みかさねてきた苦労だった。あたりまえの人間として、町の人とおなじように苦労を引き受け、「ひっくり返ったりとっくり返ったり」しながらも、そして病気からくる生きづらさをかかえながらも、彼らは自らと和解し、仲間とのつながりをとりもどそうとしてきた。苦労することにより、商売することにより、精神病であっても自分はこの世の中にいる意味があるのだということをたしかめてきた。そうした意味で、べてるの人びとは、「いかに生きるか」を考えつづけてきた人生の達人だったといえよう。”

“「精神障害」という忌まわしい病には、人間自身に対する深いメッセージが隠されているような気がしてならない。もともと人間には、人間としての自然な生き方の方向というものが定まっているのではないか。……その生き方の方向というのが、「右下がり」の方向であり、昇る生き方に対する「降りる生き方」なのである。(向谷地生良、『こころの科学』1996年、67号)”

『人間としての自然な生き方の方向』という言葉が、とても気になりました。バセドウ病は、まだ原因が判明していない甲状腺の病気です。ただ、私が発症した時、悪くなった時を思い返してみると、その原因には強いストレスが思い当たります。長く長く我慢して我慢して続けてきたけれど、もう我慢の限界かもしれないと思う瞬間を、また何回か繰り返した時、出てきたように思います。また、私の周りには意外とバセドウ病経験者、バセドウ病の治療中の人達がいます。べてるの家の多くは精神分裂症を患った人達のようですが、この本を読んでいたら、バセドウ病は、たとえば精神分裂症になる前の、ひとつの警告のようにも感じられました。まったくの思い違いかもしれません。

それでも、「人間としての自然な生き方の方向」について、感じて、考えてみたいです。

またもう一つ、「べてるの家」では“「誰をも切り捨てない」ことと「利益」を生み出すという相反するテーマへの挑戦の歴史でもありました。……人を活かし大切にする商売は、人に支えられ育てられるのです。これほど人間的な営みは他にありません。結果として私たちは、世間でいう商売の厳しさ以上に楽しさを味わい、やすらぎの基本を知るに至りました。そしてべてるは、「誰をも切り捨てない」ということの結果として想像以上の「利益」を現実に生み出してきました。(『ポンキッキ通信』21号、1993年)”

このところも、気になりすぎます。「誰をも切り捨てない」×「利益」。

「〇〇〇〇」×「利益」も、私なりに「人間としての自然な生き方の方向」に沿ったものを探してみたら良いのかも。